蜜柑日誌
蜜柑日誌
2020.08.01
オーナーの豆知識
伊藤ミカン園は、私の代で4代目になります。
祖父の時代はミカンに適していると思われる土地はほとんど使われていて難しい状況にありました。
しかしそれでも荒れていた土地を買い、ミカンを作り始めたそうです。
最初はあんな土地を買ってと笑われていたそうです。美味しいミカンは作れないだろうと。
しかし今現在日光が良く当たり、他よりも標高が高いと言うミカン栽培に適した土地になっています。
祖父には先見の明があったのかなと思います。
土地の利用の仕方もその当時では他と全く違うやり方でした。
今とは違い質よりも量を優先していた時代なので、とにかく収量を上げることが第一。
斜面にミカンの苗を植えることで土地を最大限に利用、木と木の間隔も狭く、とにかく量を意識した山の開拓の仕方が主流でした。
しかし祖父と父はそこに車が入る道を入れ、斜面には植えず木と木の間隔を広く取り、量よりも質を優先した栽培を当時から行っていったのです。
作業は楽になりますし木と木の間隔を広げるため遮る枝が少なくなり日光が当たることで、美味しいミカンが出来ると考えて行動していたのはミカン職人だったからだと思います。
それでもわざわざ面積を減らすやり方はその当時バカにされていたと言っています。でも現在では作業道を入れて山を開拓する方法が当たり前になっているのです。
先を見る目が現在のミカン山を作り、美味しいミカンの担保する技術に繋がっているのだろうと思います。
その当時笑っていた人が現在教えを受けているのを見ることがあるのですが、私としては何を今更と思ってしまうところを怒りもせず、教えている姿を見るとミカン職人なんだなと、自分はなれるのかと思ってしまうこともあります。
そんな父なのですが、じつは父にはミカンの師と言える人は居ませんでした。祖父もそこまでの技術はなく、独学でミカンを勉強していきました。
細部に至るミカンを育てる技術を身に着けるべく、産地である愛媛や和歌山、静岡に友人と二人で飛び込みで勉強しに行ったそうです。
また新聞や機関誌を良いと思ったものは購読し、足らないと思えば直接聞きに行くこともあったといいます。
そうしていると熊本県の技術指導員が直接父に話しを聞きに行くようになり、現在は広く農家が登録していますが、東海大学の創成期のモニター農家(研究や普及が目的)にも選ばれました。
その当時は周りは農林水産大臣賞の受賞者やその業界のトップ農家しか選ばれない環境でした。
熊本県では誰もが認めるミカン職人になったのだろうと思います。
私の代では、父が培った今の技術に胡坐をかくことをせず、今よりもっと良い技術を探索し、常に技術のアップデートを図り、蜜柑作りに挑戦して参りたいと思います。
読者のみなさま。
これからも引き続き、伊藤ミカン園をよろしくお願いいたします。